はじめに:あなたは「知っている」のに、なぜ「できない」のか?

「あの時、なぜ売ってしまったのだろう。素晴らしい会社だとわかっていたのに、少し利益が出ただけで満足してしまった」

「株価が下がった時、事業の本質は変わっていないと知っていたはずだ。それなのに、パニックになって投げ売りしてしまった」

「あの銘柄は割高だとわかっていた。それでも、市場の熱狂に釣られて高値で掴んでしまった」

投資経験がある人なら、程度の差こそあれ、こうした「わかっていたはずなのに、できなかった」という苦い経験があるのではないでしょうか。

私たちは、投資の勉強をすればするほど、「合理的な判断」を学んでいきます。安く買って高く売る。良いビジネスを長く持つ。リスクを管理する。これらはすべて、知的な「知っている」の領域です。

しかし、ひとたび市場という嵐の海に漕ぎ出すと、私たちの判断は荒波に翻弄されます。恐怖、欲望、焦り、後悔。こうした感情が、私たちが「知っている」はずの合理的な行動を阻害します。

なぜ、これほどまでに「知っている」ことと「できる」ことの間には深い溝があるのでしょうか?

その答えの多くは、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが提唱した「プロスペクト理論 (Prospect Theory)」によって説明できます。

これは、伝統的な経済学が前提としていた「常に合理的に利益を最大化しようとする人間(ホモ・エコノミカス)」という幻想を打ち破り、「感情的で、歪んだ判断を下す生身の人間(ヒューマン)」の意思決定メカニズムを解き明かした、革命的な理論です。

特に、資産の未来を少数の優良企業に託す「集中投資」において、この理論が明かす「心の罠」を理解することは、あなたの投資家としてのキャリアそのものを左右するほど重要です。なぜなら、集中投資は、合理性(知っている)と感情(できる)のギャップが最も激しく現れる戦場だからです。

この記事では、プロスペクト理論がどのように私たちの投資判断を歪めているのかを解剖し、集中投資家がその罠を乗り越えるための具体的な処方箋を提示します。


1章:プロスペクト理論の核心:「損失」と「利益」の非対称な天秤

伝統的な経済学(期待効用理論)では、人は「最終的に手元に残る富の絶対額」に基づいて合理的に判断すると考えられてきました。例えば、「100万円が110万円になる喜び」と「200万円が210万円になる喜び」は、同じ「10万円の増加」として等しく評価される、という考え方です。

しかし、カーネマンとトベルスキーは、これが現実と大きくかけ離れていることを証明しました。

プロスペクト理論の核心は、人間が「参照点(リファレンス・ポイント)」からの「変化」に対して、「利益」よりも「損失」をはるかに強く感じる、という非対称性にあります。

この理論には、主に3つの重要な柱があります。

1. 参照点(Reference Point)

人は「絶対的な富」ではなく、ある基準点(参照点)からの「損益」で物事を判断します。投資において、この参照点は多くの場合、「自分がその株を買った購入価格」になります。

2. 損失回避(Loss Aversion)

これは本連載の第2回「あなたの最大の敵はあなた自身」でも触れましたが、人間は「利益を得る喜び」よりも「損失を被る苦痛」を約2倍から2.5倍も強く感じます。10万円儲けた喜びより、10万円損した苦痛の方が、精神的に圧倒的に重いのです。

3. 感応度逓減(Diminishing Sensitivity)

損益の絶対額が大きくなるにつれて、その変化に対する感応度(感情の振れ幅)は小さくなっていきます。

  • 利益側(凹型カーブ): 0円が10万円になる喜びは非常に大きいですが、1000万円が1010万円になる喜びは、同じ10万円の増加でも、それほど大きく感じません。
  • 損失側(凸型カーブ): 0円がマイナス10万円になる苦痛は非常に大きいですが、マイナス1000万円がマイナス1010万円になる苦痛は、それほど増大しません。

これらを図式化したのが、有名な「S字型カーブ(価値関数)」です。

このグラフが示すのは、私たちの感情がいかにアンバランスであるか、という事実です。

私たちは、合理的な「Econ(経済人)」ではなく、歪んだ天秤を持つ「Human(生身の人間)」なのです。


2章:集中投資家を破滅させる「4つの罠」

このプロスペクト理論が、投資、特に集中投資において具体的にどのような悲劇を生むのでしょうか。私たちが「知っている」合理的な判断を妨げる、恐ろしい「4つの罠」を見ていきましょう。

1:利益確定が早すぎる(利食い千人力の呪縛)

【現象】

ある銘柄が購入価格から50%上昇したとします。集中投資家であるあなたは、その企業が今後10年で10倍になると「知って」います。しかし、あなたの心は「今売れば、この50%の利益が確定する。もし売らずに株価が購入価格まで戻ったら、あの時売っておけばよかったと死ぬほど後悔する(=損失回避)」とささやきます。

【理論的背景】

これは、「利益側の感応度逓減」と「損失回避」のコンボです。

株価が上昇し、利益(グラフの右上の領域)が出ている状態では、利益がさらに増える喜び(感応度の伸び)は鈍化していきます。一方で、「せっかく出た利益が失われる」ことへの恐怖(損失回避)は非常に強く働きます。

その結果、合理的な分析(Knowing)では「まだまだ保有すべき」と判断していても、感情的な防衛本能(Doing)が「利益を失う苦痛」を避けるために、「早すぎる利益確定」という行動を強制するのです。

集中投資において、これは致命的な過ちです。 なぜなら、集中投資の成功は、ポートフォリオの大部分を稼ぎ出す「数少ない大勝ち銘柄(テンバガー)」を、何があっても手放さないことにかかっているからです。プロスペクト理論は、その「金の卵を産むガチョウ」を、まだ卵のうちに殺してしまうよう仕向けるのです。

2:損切りが遅すぎる(塩漬け株の誕生)

【現象】

ある銘柄が購入価格から30%下落しました。あなたは、その企業の競争優位性が失われた可能性が高いと薄々「気づいて」います。合理的に考えれば、即座に売却し、より有望な投資先に資金を振り向けるべきです。

しかし、あなたの心は「今売れば、30%の損失が確定してしまう。もう少し待てば、せめて購入価格(参照点)まで戻るかもしれない」と希望的観測を抱きます。

【理論的背景】

これは、「損失側の感応度逓減(凸型カーブ)」と「参照点依存」の罠です。

購入価格という「参照点」を基準にしているため、一度「損失領域」(グラフの左下の領域)に入ると、私たちは「損失を確定させる」という強い苦痛から逃れようとします。

さらに「損失側のカーブは凸型」であるため、-30%の苦痛と-40%の苦痛の差は、0%から-10%の苦痛の差よりも小さく感じます(感応度逓減)。つまり、損失が膨らむほど、痛みに対して鈍感になるのです。

この心理状態は、合理的な判断とは正反対の「リスク選好(Risk Seeking)」を生み出します。損を取り戻そうと、さらにナンピン買いをしたり、根拠なく持ち続けたりするのです。

集中投資において、ひとつの銘柄の失敗がポートフォリオ全体に与える影響は甚大です。プロスペクト理論は、その失敗を「小さいうちに処理する」という合理的な行動(Knowing)を妨げ、傷口を致命傷になるまで放置させてしまう(Doing)のです。

3:「高値」の優良株を買えない(機会損失)

【現象】

あなたが長年ウォッチしている超優良企業があります。業績は絶好調で、将来性も抜群だと「知って」います。しかし、株価は連日、史上最高値を更新中です。

あなたは「今が天井かもしれない。買った直後に暴落したら…(損失回避)」と考え、買うことができません。そして、その後も株価は上がり続け、あなたは永遠にその列車に乗ることができません。

【理論的背景】

ここでの「参照点」は、投資家が意識している「過去の安値」や「52週最安値」です。その参照点から大きく乖離した「現在の高値」で買うことは、心理的に「損をする可能性(=高値掴み)」を強く意識させ、損失回避のブレーキを踏ませます。

しかし、集中投資家が探すべき「真に偉大な企業」とは、本質的に「一見割高に見えるが、常に高値を更新し続ける企業」です。プロスペクト理論は、最も買うべき優良企業へのエントリーを阻害する「心理的な壁」として機能します。

4:「取り戻そう」とする無謀なギャンブル

【現象】

投資で大きな損失を出してしまったとします。あなたは「今は冷静になり、次のチャンスを待つべきだ」と「知って」います。

しかし、心は「参照点(元の資産額)」に戻ることだけを渇望し、「一発逆転」を狙って、よく分析もしていないハイリスクな銘柄に手を出してしまいます。

【理論的背景】

これも「損失領域でのリスク選好」です。損失を抱えた人間は、その損失を取り戻す(参照点に戻る)ためなら、平時では考えられないような大きなリスクを取る傾向があります。合理的な資産運用(Knowing)が、一瞬にして感情的なギャンブル(Doing)に変貌する瞬間です。


3章:「知っている」を「できる」に変えるための処方箋

では、私たちはこの強力な心理的歪み(バイアス)に、どう立ち向かえばよいのでしょうか。「知っている」ことを「できる」に変えるためには、人間の本能に逆らうための「仕組み」が必要です。

処方箋1:参照点を「購入価格」から「企業価値」へ強制的にシフトする

プロスペクト理論の歪みの根源は、「購入価格」という「参照点」への固執です。この参照点を破壊しなければなりません。

今すぐ、あなたのポートフォリオを見るのをやめましょう。そして、代わりに「もし今、すべてのポジションがキャッシュ(現金)だとしたら、現在の株価で、同じ銘柄を、同じ量だけ買うか?」と自問してください。

  • 答えが「Yes」なら(買い増ししたいと思うなら):あなたは「企業価値」を参照点にできています。株価が購入価格より下がっていても、それは絶好の買い場であり、パニック売り(罠2)を防げます。
  • 答えが「No」なら(今からは買わないと思うなら):あなたは「購入価格」に縛られています。たとえ含み益が出ていても(罠1)、あるいは含み損を抱えていても(罠2)、合理的な判断は「即時売却」です。

この問いを定期的に行うことで、あなたの参照点は「過去のコスト」から「未来のリターン」へと強制的にシフトします。

処方箋2:意思決定を「プロセス」で評価し、「結果」で評価しない

私たちの脳は、結果が良ければ「良い判断だった」、結果が悪ければ「悪い判断だった」と短絡的に結論づけます(結果バイアス)。

しかし、プロスペクト理論の罠を回避するには、これを逆転させねばなりません。

  • 投資ジャーナル(日誌)をつける:なぜその銘柄を買ったのか?売却する条件は何か?を事前に明文化します。(これは第7回の「マンガーのチェックリスト」にも繋がります)
  • プロセスを遵守したかを問う
    • たとえ株価が下落しても、事前に定めた「売却条件」に抵触していなければ、保有し続けたあなたの「行動(Doing)」は「正解」です。
    • たとえ株価が上昇しても、事前に定めた「保有理由」が崩れたのに売りそびれたなら、あなたの「行動(Doing)」は「不正解」です。

「結果」という短期的なノイズから目をそらし、「プロセス」という長期的な合理性に集中することで、感情の揺れを抑え込むことができます。

処方箋3:「売却ルール」を先に決め、感情の入る隙をなくす

「早すぎる利益確定(罠1)」と「遅すぎる損切り(罠2)」は、どちらも「その場の感情」で判断しようとするから起こります。

これを防ぐ唯一の方法は、買う「前」に、あるいは「冷静な時」に、売却ルールを厳格に定めておくことです。

  • (集中投資家向けの)利益確定ルール例
    • 「株価が2倍になったら売る」といったルールは最悪です(罠1)。
    • 正しくは、「企業価値(バリュエーション)が、将来の成長性を織り込んでもなお、明らかに割高(許容PERの2倍など)になった時」あるいは「より優れた投資先が見つかった時」にのみ売却を検討する。
  • 損切りルール例
    • 「購入価格から20%下がったら売る」といったルールは、一時的な市場のパニックで優良株を手放す愚行に繋がります。
    • 正しくは、「購入の前提となった競争優位性が失われたと判断した時(例:競合の新技術、規制の変更、経営陣の悪手)」に即時売却する。

ルールを先に決めておくことで、いざその時が来たときに、「知っている」合理的な判断を「できる」ように自分を縛り付けるのです。


結論:「歪み」を知ることから、真の投資は始まる

プロスペクト理論は、私たちが投資においていかに非合理的であるかを冷徹に突きつけます。私たちは、利益を得ることよりも損失を避けることを優先し、その判断基準は「購入価格」という過去のアンカーに強く縛られています。

「知っている」ことと「できる」ことのギャップは、私たちが「ヒューマン」である限り、決してゼロにはなりません。

しかし、この「歪み」の存在を「知る」ことこそが、偉大な投資家への第一歩です。

集中投資とは、合理的な分析(Knowing)を信じ抜き、本能的な感情(Doingのギャップ)と戦い続ける、知性と規律の総力戦です。あなたは、自分の脳に組み込まれた「損失回避」という強力なブレーキと、「利益確定」という甘い誘惑に、常に抗い続けなければなりません。

幸いなことに、私たちには先人の知恵があります。この根深い心理的バイアスに対抗するために、彼らはある強力なツールを編み出しました。次回、第7回では、ウォーレン・バフェットの盟友、チャーリー・マンガーの知恵を借り、「投資のチェックリスト」がいかにして私たちをプロスペクト理論の罠から守ってくれるのかを学んでいきましょう。